「世界平和」シリーズ 連載 第1話です。

私が「世界平和の祈り」をするようになったのは、
竈山(かまやま)神社とのご縁ができてからです。

 

まずはじめに、私が神社の神様から
メッセージを受け取るようになった、数年前のことを書きます。

 

1、神様は私達の平安の為に尽力してくれている

それは数年前、宇治に引っ越す前の
京都に住んでいた時のことです。

 

私は近所の小さな神社に
よくお参りしていました。

何かをする前、どこかへ行く前には、ご挨拶をして、
「させて頂きます」ということと
安全をお祈りしていました。

ある時私は、
あるボディワークの催しのお手伝いを
しようとしていました。けれども、
何となく微妙に危険を感じていました。

それはどういうことかというと

京都であるボディワークのセミナーがあるとかで、
海外から来られる講師の先生のお食事を作ってください、
という依頼がありました。

はじめは気軽に「いいですよ」とお答えしたのですが、
話を聞いてみると講師は先生が二人いらして、
食事に制限があるとかで、
食べられないものが多すぎるのです。

「あぁ、大変なんだなぁ」とはじめは
親切心からお食事当番をするつもりでしたが、
引き受けようとすると、
その講師の先生の「氣」が伝わってくるのです。

その「氣」は「拒絶感」でした。

「ひとを引き寄せない、受け入れない」ような「氣」で、
その方のお食事を引き受けようとすると、
私まで「ダメダメ! 寄らないで!」と
ピリピリしてしまうような感じがして、苦しいのです。

講師の先生はからだの専門家だけれども、
実はこころに悩みがものすごくある、
ということが伝わってきました。

そしてこのまま引き受けようとすると、
わたし自身が危険になる、という感じがしました。

「でも世界的に活躍している先生だし・・・。
光栄なことなのかも? 断れない、かも?」

と自分の感覚にふたをして、引き受けようとしていました。

そんなことで迷いながら、
近所の小さな神社に行くと
鳥居の処で「帰れ」と言われた感じがしました。

誰もいないから見えないのですが、
誰か見えない人がいるような感じです。

「え、いつもお参りしているのに」とかなんとか
その見えないひとに交渉して
やっとお参りを許されました。

境内に足を踏み入れたら、なんとなく、ですが、
どうやら境内が崖っぷちになっているような
氣を感じました。

見えないけれど綱がはってあって、
その綱のところから一歩でも
はみ出ると落ちるぞ、という
ぎりぎりの瀬戸際にいました。

祭壇の前まで来た時に、なんとなくわかりました。

その催しのお手伝いをするのはダメだ、ということです。

私がその催しに手伝いに行ったら、
私の後ろについていてくださる方々が
お守りきれない、大変な状態になる、
ということがわかりました。

その時、神社の境内にいながらにして
生と死の狭間の
崖っぷち感をひたひたと感じ
私はぎりぎり一本の綱で
かろうじて守られている・・・

そういう状態だと知らされました。

私は神社から帰ってすぐに、
その催しのお手伝いを依頼してきた人に

「お手伝いできません」とお断りのメールをしました。

それ以後、そのボディワークのセミナーには、
一切行かなくなりました。

神社にお参りして、目には見えないけれども、
はっきりと厳しく諭されたり、
メッセージを受け取るというのはこの時が初めてでした。

神社の神様は本当に私達を
守ってくださっているということがわかりました。

ちなみに後日その近所の神社にお参りした時は
普通にお参りできました。

頭で考えると、そんなことはあり得ないことだし
「あんた、夢でもみていたのか、おかしいよ」と
言われてもしかたないことです。

でも私は身体の感覚で、目の前にいない人の感覚を
感じたりすることはあるので、

「この世の中、訳のわからない部分もある。
そういうこともあるのだ」と受け入れていくことにしました。

 

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今年(2018年)に入って宇治の近所の小さな神社で
上記に似た、不思議な瀬戸際感を感じました。

 

宇治神社にお参りする3日前(1月13日)
自宅の近くの小さな無名の神社にお参りしました。

その神社にお参りした時、はじめ、
鳥居の前で見えないけれど、どなたかに
呼び止められたかのような気がしました。
そして「誰だ、名乗れぃ」と言われたかのような気がしました。

実際には誰もいないのですが・・・。
なにやら取り込み中らしい雰囲気が(???)

それで 住所と名前を名乗りました。
(見えないひとに対して名乗るなんて初めてのこと)

すると、近所の者でいつもお参りしている、
という事はわかったようです。

それで「入ってよし」と言われて入りました。

その時目には見えないけど縄がはってある感じがしました。
そして、いちいち
「縄の通りにいけ、参道の左側を行け」ということや、
「ここからこっちに行け、ここでくるりと方向を変えろ」と
歩く道の指定や所作の指定など細かくうるさかったです。

まるでそこと違うところに
足を踏み出せば、危険だぞと言わんばかりです。

そして、小さい祠にお参りさせてもらい、
「そこだけで帰れ」と言われました。

いつもお参りさせて頂くところがあるのですが、

「今日はそっちへは行かなくてもよろしぃ。
帰りなさい」と言われ、

「はい、ありがとうございました」と、
頭をさげて帰りました。


何事かあるのか知りませんが、
知らないのでいいのでしょう。

つまり、知るということは
それと関わりを持つということなのです。

知らないでいいですよ、と言われたことは、
知らないで関わらないで帰ることです。

 

その時の 自宅の近くの小さな祠に
お参りさせていただいて、なにかわからないけど、
不思議な瀬戸際を感じた、ということを
その日13日の夜、FBの記事に友人限定でアップしました。

 

「絶対に怪しいと思われるので、絶対友人限定です。
うるさそうな人も除外しました」と書いて、
神社にお参りしたら見えないひとがいて、
あれやこれや細かいことを指示された、
という内容の記事をアップしました。

 

すると、なんと、
私には、神社好きで、神社のお参りについて
マニアックな友人が多くて、
記事のコメントがいっぱいつきました。

 

 

このことは後に詳しく書きます。

 

その3日後の宇治神社にお参りした時のことに続きます。
2話に続く